ワイルドカード4巻第11章

        From the journal of Xavier Desmond

            〜 ザビア・デズモンドの日誌より 〜

                G.R.R.マーティン

           1986年12月29日 ブエノス・アイレス

Don`t cry for Jack、Argentina…*(アルゼンチンよ、ジャックのために泣かないで・・・)
エビータの悲しみに充ちた声が呼び戻されたかのようです。
初演はブロードウェイであり、その演説は何度もミュージカルで繰り返され、そのたびに、ルポーンによるフォーエーシィズのくだりを聞くにつけ、身を切るような思いにさせられますが、当のブローンは沈黙を守り、禁欲的とすら思える佇まいを、レセプションの間中貫いています。
しかしその心中はいったいいかなるものでありましょうや。
ペロンは死に、エビータもあとを追い、イザベルももはや記憶に留まるのみ。
とはいえアルゼンチンの政界においては、依然としてペロン主義者がかなり大多数を占めているようで、彼らはあのときのことを忘れてはいないのでしょう。
いたるところにブローンをなじり、帰国を促す落書きがしたためられているのです。
アルゼンチンにとって彼こそがGringoグリンゴ(忌むべき白人の意:アルゼンチン人が好んで用いるようです)の象徴といえるのでしょう。
醜くかつ強大な力を有すると語り草となっているアメリカ人が、その政策を認めなかったからといって、招かれてもいないのにやってきて、自治政権を覆してのけたのです、アメリカは同様のことをラテンアメリカでも行っており、そういった行為に対する憤りが至るところに膿ただれているのは疑いのないことといえましょう。
アメリカのCIA「秘密エース」の存在が囁かれていたとしても、そういった顔も知られず、存在も定かでないものが、血肉を備えたゴールデンボーイという目に見える存在に置き換えられて憎悪され、そのご本尊が目の前に鎮座ましましているとあっては目もあてられない状況であり、誰かがホテルの部屋割りをリークしたとみえて、初日に、彼がバルコニーに姿を現すと、たちまち糞尿や腐った果実が浴びせかけられ、それ以来公用がある時以外は中に引きこもって出てこなくなりましたが、それでも万全ではなく、昨晩Casa Rosadaカサ・ロサダ大統領府でそれは起こったのです。
褐色の顔を、豊かで艶のある漆黒の髪で縁取った若く美しい女性が微笑みとともにジャックに歩み寄って、まっすぐに瞳をみすえてから、つばをはきかけたのです。
その女性は労働組合幹部の妻ということであり、極めてまずい状況を引き起こしかねない事態だっただけに、ハートマンにリノス両上院議員が何らかの抗議を行ったものと信じたいところです。
ともあれブローン自身は並外れた自制心を発揮したとみえて、平然とした風情にすら見えました。
レセプションの済んだあとに、ディガーはことのあらましをエーシィズ誌に載せるべく電報で送っており、情け容赦なくブローンをつけまわしているようでした。
そこでブローンは「確かに誇ることのできない愚行も重ねてきたが」そこで一端言葉を切ってから「ファン・ペロンのことはそれに含まれない」と言葉を漏らしてしまいました。
「そうだ、そうとも」とディガーが調子を合わせています。
「それで唾を吐きかけられてどんな気分だった」
ジャックは視線で嫌悪を顕わにしながら答えますと、
「おれは女には手をあげない」そう答えてからかかわりを避けるように去って行きました。
ジャックがいなくなったのを見届けてから、ダウンズはこっちを向いて「おれは女には手をあげない」という答えをゴールデンボーイの口調を真似て唄うように繰り返してから「いまいちだな」と付け加えました。
世間はジャック・ブローンの言動には、卑劣と裏切りを期待しているといいたいのでしょう。
私自身は、そんなに単純なものとは思っていませんが、彼の若い外見からは、実際の年齢はうかがい知れはしませんし、その人格の形成期に二次大戦と、MTVではなくNBCブルーネットワークを聞いて育った古くさくも風変わりな価値観と憂鬱なる日々がかかわっていることは疑いのないことでありましょう。
エースのユダと呼ばれる男ではありますが、複雑な世界情勢に翻弄されただけであり、アルゼンチンのこのレセプションで巻き起こった混乱ですら彼自身に罪はないといえるのかもしれませんし、二次大戦のわずかあとの朝鮮戦争で死に絶えた理想、HUACによる聴取に冷戦そういった過去によって失われた夢の残滓、それが彼なのかもしれません。
アーチボルド・ホームズにフォー・エーシィズは世界をも変えることができると信じていたのでしょう。
そして疑いもなく、それは国家によって成しえないことであり、彼らはその能力をもって、善を助け、悪を裁けると確信しており、かつ民主主義の理念とともに彼らの行動は純粋な善意として正当化される必要があったのです、その黄金時代とも呼べる初期の時代に活躍したわずかなエースたち、その中心に存在したのがゴールデンボーイでありその黄金時代が暗黒の時代に成り代わったことは、今ならば歴史を学んでいるものなら誰でも知り得ることながら、皆近代になって知りえたことであります。
ブローンとその仲間たちは誰も為しえなかったことをなしとげました。
高く舞い上がり、戦車を持ち上げ、他人の精神と記憶を吸い上げたのです。
彼らは世界をより良い方向に変えることができるという幻にとりつかれていたのでしょう、そしてその幻は彼らの足元で崩れ去っていきました。
そうして長きにわたる失墜が始まったのです。
もはやエースであることは大いなる夢たりえなくなり、絶望に狂気、不名誉と死にまみれた存在となったとしても、フォーエーシィズの記憶は勝利に彩られたものであり、アルゼンチンにおける功績はその中でもっとも輝かしきものであったはずでした。
そのはずなのに、その栄光の地に再び脚を踏みいれることがジャック・ブローンにとって苦い味わいを伴っているのはどうしてでしょうか。
そしてまだ苦しみたりないというのでしょうか。
ブラジルをたったころに、大量のエーシィズ誌が追いかけてくるように届けられてきました。
モーデカイ・ジョーンズとジャック・ブローンが睨みあっている(巧妙なでっちあげです、実際彼ら二人はトムリン空港をたってからほとんど顔を合わせてもいないのに違いありません)表紙で、ディガーの請合った通りのゴシップにまみれた代物で、みだしは<世界最強の男決定戦>というものでありました。
記事そのものはというと、長々と語られる過去の逸話に力自慢を散りばめ、世界最強の男がどちらかを推測する程度のものにすぎませんでしたが、当人同士は非常に気まずい思いをしたに違いはなく、特にブローンは表情を険しくしており、口を挟む気も蒸し返す気も毛頭ない、といった様子でありました。
おそらく記者たちの間では、様々な論議がまきおこされたであろうことは想像にかたくありません(ディガー自身は、記者たちが非常な感銘を受けていると思っていることでしょうが)そしてそのわだかまりは決して解消されてはいないのです、そこで私はその記事を読んですぐに、なんでこんな攻撃的でいい加減な記事がかけるんだ、とダウンズに持ちかけてみました、するとディガーは不思議と驚いた様子で
「そいつは心外だね」と答えてから、
「何のデマがあるというんだい」と返してきたではありませんか。
実際のところデマというよりも、公平ではないと申し上げたかったのです、
ワイルドカードの到来によって超人的な力を得たのはあの二人だけではないのですから。
また肉体が産み出す物理的な力以外のものがタキオンの持つ診療記録に記載されていることでしょう、たとえばテレキネシスやテレパシーです。
そしてそういった症例がジョーカーの著名なものたちも有するものであることが報告されていることが、私の脳裏をよぎり、ぬぐい難く思えたことは確かです。
例をあげるならばエルモ(クリスタルパレスの侏儒用心棒)に≪アーニーバー&グリル≫のアーニー、オーディティにクアシマン・・・そしてハワード・ミューラー、すなわちトロールの腕力は、確かにゴールデンボーイやハーレムハマーには及ぶべくものでないでしょう、それでもディガーの記事にはそれらジョーカーたちに触れることすらされていない、それこそ多くの力自慢のエースたちが取り上げられているにも関わらずにです。
それはどうしてなのか?それこそを私は知りたかったのです。
極めて遺憾ながらそこでディガーと交わされたわずかな会話からはあまり得るものがなく、しまいにはディガーは目を向いてこんなことを言い出したのです。
「あんたのお仲間さんたちを扱うのはやっかいなんだ」そしてこうも言い出して私を激怒させました。
「さすがに最強のジョーカー決定戦までやっちまったら話が大きくなりすぎるからな」
彼は私が怒る理由を掴みかねているようでした、我々のどこがそれほどやっかいだというのでしょうか?
そのやりとりをハワードが多大な興味を持って見つめています、その瞳に何の災いが潜んでいるというのでしょうか、何のやっかいがあるというのでしょうか?
その憤りに答えが与えられることがないまま、話は我々の保安主任ビリー・レィの記事における扱いにすりかえられていきました。
つまりディガーがいうには、メジャーリーガー足り得ない、力もあるという言い分でありました。
その話をビリーが知ったと聞いたディガーは、マイナーリーガー呼ばわりされたビリーと顔を合わせないようにしたようです、それが事実ならばカーニフェックス(ビリー・レイの通称)の情報操作はいっぱしのものであり、立派な記者としての素質を備えているといえましょう。
勿論そのことは苦笑いとともにディガーには否定されています。
そして伝え聞いたところによれば、ビリー自身はこうも語ったそうです。
腕力だけが力じゃないのさ、たしかに俺はブローンやジョーンズほど強い力は持ち合わせてはいない、だが闘う方法ならいくらでもあるし、口に札束を放り込むことすらやってのけるさ、と・・・
勿論こういった議論は机上の空論にすぎないかもしれませんが、強さを語るということは弱さから目をそむけることになり、そういった意味で皮肉な慰めを得たのも事実です。
力といえば、70年代初期に行われたデモンストレーレーションが思い起こされます。
ニュージャージー、ベイヨ−ンの造船所で改修作業中だった戦艦を、タートルがテレ
キネシスで海面から数フィート持ち上げてみせたのです。
それは30秒ほどのことでした、たしかにブローンやジョーンズは戦車を持ち上げもするし、車をばらばらに引きちぎることもできるが、直接触れてのことで、距離を置いては可能ではないでしょう。
つまりこの単純な事実は肉体の産み出す力には限界があるということを端的に示しているといえ、そういったことの縮図であるといえましょう。
人の精神の生み出す力にも限界はあるが、人類はそこにはまだ至っていないとタキオンが言っていました、そしてもし噂通りにタートルがジョーカーであるならば、その限界にまで至っていない最強の力を備えているのがジョーカーであるということになり、そのささやかな想像は私にとって密かな慰めとなります・・
それでもどんなに思いをはせることができようとも、私自身が卑小な存在であることに・・・
・・・変わりはないのですから・・・



*実際は「Don`t cry for me、Argentina…」