「ワイルドカード」4巻第7章

                綾なす憎悪

                      パート2
                 スティーブン・リー
                  1986年12月9日 メキシコ


わたしは今、チチェン・イツァーのジャガーの神殿、現地でいうところの<El Tempro De Los Jagauares>に立っています。
ユカタン半島の激烈な日の光に照らし出されたアーチの異様、2つの薄いカーブの組み合わせは大蛇を思わせ、入り口の側面は巨大な頭部を模しているように思われ、その絡みあったしっぽを思わせる柱が草に覆われたさまには、趣すら醸し出しているような感じさえいだかされるのです。
ガイドブックによると、25フィート下の球技場<El Juego De Pelota>では数千年前には、神官たちが選手達に喝采をおくっていたと伝えられています。
競技自体は現代のものとさしてかわりはありません、プレーヤーは皮の硬いボールを肘、膝、腰で転がし、狭いフィールドの側面の石の壁に据えられた輪っかに、バウンドしたボールを叩き込む、といったシンプルなゲームで、ククルカン、もしくはケツアルコアトル(翼ある蛇)と呼ばれる神に捧げられ、栄光を称えるものです、そして勝ちを収めたチームのキャプテンは、神殿から栄誉が与えられました。
黒曜石のナイフで、敗北チームのキャプテンの首級をあげ、栄誉ある来世へいざなう。
我々の倫理にのっとるならば、みのけもよだつ報酬といえ、居心地の悪さを振り払うこともできません。
そしてその壁面を彩る血潮は、茶色く変色した古代に流されたマヤ人のもののみでなく、現代のジョーカーの血潮でも彩られているとしたら、そのおぞましさはいかほどのものといえるでしょうか。
ここでも遅れてとはいえ、あのたちの悪いワイルドカード感染がおそったのです。
科学者の推論によれば、ウィルスのその感染者に対する影響は、感染者の精神状態によって異なって発症するとされ、たとえば恐竜に強く魅かれたティーンエイジャーがキッドダイノソアに、豊満なシェフが重力をコントロールできるハイラム・ワーチェスターになったりとその願望が強く反映されているとのことでした。
その見解に対して、タキオンに尋ねたことはありましたが、はぐらかされたのみで、彼自身つかみあぐねているのか、もしくは、もしそれが事実であったとしたら、ジョーカーをみまった悲劇は彼ら自身への罰となり、レオ・バーネット主教といった原理主義者や、ヌーラル・アラーといった予言の徒に都合よく利用されかねないネタだけに慎重になっているのかもしれません。
ここマヤの古代遺跡においてなら、羽の生えた蛇がダースでのたくっていたところで、驚くことではないかもしれないし、ククルカンの神への信仰のもと、ここメキシコにおいて、人々の血がものをいったならば、マヤ人たちが彼らジョーカーの異形をみて、神の恩寵を受けた存在ならばなおよいと考えたのも不思議からざることかもしれませんが、それは伝統と片付けてよいことでしょうか、ここチチェン・イツァーの地において、わずか1年の間に50人以上のジョーカーが生命を奪われました。
彼らのほとんど(もちろん全員ではない)はマヤに発生した新しい宗教の信望者であり、この廃墟は彼らにとって聖地でした。
彼らにとってウィルスに感染することは、太古に回帰する手段であって、自分達が被害にあったとは考えていないようであり、彼らにしてみれば、神の神聖な手が彼らの身体をねじりこねあげて異なったものに変えたのだと考えていたようで、確かにその信仰は彼らを野蛮な過去に回帰させたと言えるでしょう。
彼らはその異形から怖れられ、スペインやヨーロッパから移民してきた人々の末裔たちは、彼らを忌み嫌い、そして彼らは、人と獣の血の交わりといった流言を広げたのです。
それが真実でないのは明白であり、デマであったところで、彼らが異形であるという事実が覆ることはありませんでしたから、彼らの隣人たちが、手を携えて脅威の一掃にはしる口実として充分のものでした、その結果、村々には阿鼻叫喚の地獄絵図が現出してしまったのです。
横たわり、慈悲をもとめる喉が、太古の伝統の写し絵であるかのように切り裂かれ、飛び散って迸る血流は、彼らを見下ろし壁面を彩る曲がりくねった蛇たちを真紅に染め、彼らのからだは無残にも球技場を舗装するかのようにつみあげられたのでした。
惨劇は惨劇を呼び、ナットとジョーカーの対立をいろどり、過去の反感はさらに新しい、大きな差別を生み出していく。
ここにおこったことは、まぎれもなく、たとえようもない悲劇です。
それではわたし達の身近に存在するジョーカーたちに対してはどうでしょうか。
この記事をお読みのあなた、この虐殺の起因となった偏見、憎悪があなた自身にも思い起こされ罪悪感を憶えることでしょう。
異なるものへの恐れ、それは他人事ではないのですから。

そこまで吹き込んで、セイラは録音をとめ、蛇の頭のうえにレコーダーをひっかけてから、眩しい日の光に目を細めつつ、ククルカンのピラミッドの作り出す長い影が覆う髭面の男の神殿に、主な代表団メンバーがさしかかったのに目をとめた、まさにそのときだった。
「その豊かな感受性が、あの優れた記事たちをうみだしたのだろうね」
突然ふってわいた言葉に背筋が凍りつく。
パニックを振り払いつつ、ハートマン上院議員が自分に話しかけてきたことをようやくセイラは理解した。
それはセイラにとって脳髄が麻痺するような感覚であり、立ち直るのに長い時間を要したと言えよう。
「脅かすのはやめてください、上院議員ともあろう人が、連れ添いの方々はどうなされたのですか?」
ハートマンはわびるようにはにかんで答えた。
「ミズ・モーゲンスターン、そんなつもりはまったくなかった、これだけは信じて欲しい、実はね、親友のハイラムに、私的な用件があるから、と相談をもちかけたら、抜け出すのに手を貸してくれたんだ」いたずらを告白する子供のように穏やかに微笑みながら続けた。
「もちろん全員を煙にまいたわけじゃない、ビリィ・レイは下に控えて、わたしをちゃんとガードしてくれているよ」
セイラはそのうさんくさい笑顔に鼻をしかめつつ、吊るしておいたレコーダーをとり降ろし、ハンドバッグに収めしまってから切り抜けようと決意する。
「わたし達の間にもはや私的な用件などありませんのよ、上院議員、ごめんあそばせ・・」移動をはじめ入り口をめざし、神殿をあとにするに際し、一瞬引き止められることを予想して、身を硬くして通ったが、グレッグは紳士的に脇によいて通るにまかせた。
「思いの深さゆえだったんだ」
階段の手前で思いもよらない言葉がセイラの耳に飛び込んできた。
「やっとわかった、きみがなぜわたしを憎むかがね、きみはアンドレアの妹さんだったんだ、だからそんなに似ているんだね」
その言葉はこぶしのごとくセイラをうちすえ、胸の痛みで息がつまる思いすらしたのだった。
「公平にわたしの話も聞いて欲しいんだ・・」その言葉の一つ一つがセイラにとってあらたな一撃に等しかったが、ハートマンはさらに続けた。
「きみが先日わたしに語ったことは真実だったんだね」
もはや持ちこたえることはかなわず、冷たくざらっとした感触の石面に手をおいて、すするようにうめかざるおえないような衝撃を感じていたのだった。
信じられないことにハートマンはその目に同情すらにじませて彼女をみつめていたのである。
「一人にしてくださらないこと?」
ようやくしぼりだしたセイラの声をさえぎってハートマンはさらに続けた。
「ずっと旅をともにするんだよ、ミズ・モーゲンスターン、わたしたちがいがみあったり敵対する必要のないことをあきらかにしておきたかったんだ」
自分をおびやかしやりこめる言葉ならば、怒りにまかせて簡単に打ち負かす覚悟はあったのだ、それなのに彼は拳をふりあげることもせず穏やかな様子で彼女の側に立ち、揺るぎない口調で、悲しみすらにじませて彼女に話しかけているではないか。
まったく予想外の展開だ、この男はいったい・・・
「どうして・・・」セイラはくぐもった声ながらなんとか一声をしぼりだした。
「いつアンドレアのことを・・・?」
「プレス会場できみに会ったあとでね、秘書のエーミィが調べてくれたんだ、きみがシンシナティに住んでたことや、きみの旧姓がウィットマンだということとか、わたしのうちから道2本しか離れていないソンビューに住んでたこととかね。アンドレアはたしか、きみと7つだか8つ歳が離れていたんだったかな?きみたちは実によく似ているんだよ。彼女がいきていたらきっときみのように美しく成長していたんだろうね。」
感情を覆い隠すかのように手を額にかざし、目の側面をもみこすりながらグレッグはさらに続けた。
「わたしは本来嘘やごまかしをみすごせないたちなんだよ、ミズ・モーゲンスターン。それは私のスタイルに反するものだからね、それなのに、君の書いた無思慮な記事からは不思議に不快な感じをうけなかった、実に奇妙なことで、本来ありえないことなんだけどね」
「わたしの記事が眉唾ものだとおっしゃるのですか」
「そんなつもりはさらさらないよ」
「わたしの記事は天地神明にかけて真実ですわ、お疑いのふしがあるのでしたら証拠をごらんにいれましてよ」むきになっていいつのるセイラに、ハートマンは軽いいらだちをこめて舌打ちのごとく言葉をしぼりだした。
「ミズ・モーゲンスターン。そうじゃない・・」遺跡に頭をもたれさせて、高らかに自嘲しつつ言葉をつないだ。
「確かに君の記事は信憑性にかけている、読んだとき、そう感じたのも事実だ、だが,わたしが言いたかったのは、よく調べ、実に丁寧に書かれていた、ということで、書いた人間に好意を持ち、いつかお互いに知り合い、話す機会を設けたい、とそう感じすらしたということを伝えたかったんだ」彼の真剣な灰青色の瞳がセイラをとらえた。
「問題はきみのお姉さん、つまりアンドレアの亡霊だな」
セイラは一瞬息をするのすら忘れた、それほどハートマンの言葉は予想外で、衝撃的ですらあったのだ。
あんなに屈託なく、無邪気な笑みすらたたえているなんてありえない、だってあの男は・・
「あなたが殺したんじゃない・・」
たまらず吐き出されたその言葉に、ハートマンは強い衝撃を受けているようだった、顔面は蒼白となり、一瞬呆然と口を開いたが、堅く引き結んでから、何かを振り払うように首を振ったのち、ようやく言葉をみつけたようだった。
「そんなはずはないだろう」そして引き絞るように言葉を続けた。
「犯人はロジャー・ペールマンだよ、疑いなく、あの哀れな知恵遅れの男の犯行だ」ハートマンは首を振りながら何かを振り払うように締めくくった。
「明白な事実だよ」彼は馬脚を現した、その何かに追われるような異様なものいいにセイラの直感が答えを導き出したのだ、やはりこの男が殺したのだ、と。
ハートマンの顔面はさらに蒼白さをまし、額には玉の汗を浮かべて、その瞳は己の内に潜む何かに向けられすがっているかのようだった。
「それはないだろう、わたしも確かにあそこにいたよ、ミズ・モーゲンスターン、でもそれは近所中が目撃していることだし、確かに彼が家を飛び出し、やつの母さんが叫び声をあげるのを聞いたし、警官がかけつけ、やつを逮捕したのも見たし、包まれたなにかが運び出されるのも見たよ、家の母さんが君の母さんを抱きしめてなぐさめていた、相当感情的になってなきじゃくっていたからね。その叫びは我々にも伝染し、子供達もみな、なにがおこったかもわからないままなきじゃくっていたね。そうして拘束されたロジャーは連れ去られたわけだけど・・・」
セイラは固唾をのんで、ハートマンがなにかにとりつかれたような顔で、手をもみしだきながら話すさまを見つめていた。
「どうして私が殺しただなんていえるんだ?」すがるような声が続く。
「まだティーンエイジの少年だったわたしがどれだけアンドレアにのぼせあがっていたかしらないだろう?わたしがアンドレアを傷つけることなどできるはずはないんだよ、あれから何度あの惨劇の悪夢をみたことだろう、あの事件でロジャー・ペールマンはロングビュー精神錬に収容されはしたが、あの男は縛り首になってしかるべきで、電気椅子のスウィッチがあったらそのボタンを自ら押すことを願っているくらいなのだよ」
わたしは思い違いをしているのだろうか。そんな想いがセイラの脳裏に強くかすめた。憎悪が事実をゆがめて認識させていたとしたら・・
サキュバスは・・」その言葉をしぼりだしたセイラの喉はかわいてひきつれ、唇をなめて湿らせてからさらに続けた。
「あなたはあそこにいて、だからサキュバスの顔があんなふうに・・」
ハートマンは深く息を吸い込んで、しばしセイラの顔をみつめた、セイラはその視線を見つめ返しながら、スタックド・デッキ号の一行が球技場から北の神殿に入ったため声が聞こえなくなっていることにきづき、沈黙が重く感じられたのだった。
「わたしもサキュバスのことは知っているよ」そこでハートマンが先に言葉を発した。彼女から視線を外して話すハートマンの口調におさまりのつかない感情の流れを感じる。
「彼女が暴動に巻き込まれるまえにもあったことがあった。あのときわたしはまだ一人身だった、そしてサキュバスは・・」
視線を戻し彼女をみつめるハートマンの瞳は驚くべきことに潤んだものをたたえていたのだ。
サキュバスはね、姿を変えるんだ、その相手の理想の姿にね、君がサキュバスにあったなら、サキュバスは君の理想の相手に姿を変えただろうね」
その瞬間セイラはハートマンの言葉の意味を理解した、しかしそれを認めたくなかったため、それを必死で振り払おうといやいやをするかのごとく首をふるしかなかったのだ。
「わたしにとっては・・」ハートマンはさらに続けた「それはまぎれもなくアンドレアだったんだ、きみのいうとおりだ、わたしたちは共通の思いで結びつけられているといったね、アンドレアと、彼女の死によって結びつけられてしまったんだろうね。あの惨劇から6ヶ月もたったころには、それすら記憶の淵においやられてロジャー・ペールマン同様忘れ去られたと自分でも思っていた、サキュバスに会うまではね、彼女はわたしの心にゆさぶりをかけ、その中に潜んだものをみつけだしてしまったんだ、あの暴動の折、暴徒に押し包まれた彼女は、救いを求めて私のなかから、大切な人の思い出を写し取ったんだろうね、そうわたしは彼女を殺すことはできない、わたしがきみの姉さんに理想を感じ取り、夢想の対象にしていたことに罪の意識をかんじていることは認めるが、結局のところ、その想いが強すぎて、彼女の思い出すらうちけすことができなかったのだから」
こんなはずじゃなかった・・・
アンドレアを溺愛する唾棄すべき両親の記憶から、アンドレアの死によってようやく開放されたと思っていたのに、あの映像を見たときから、あのサキュバスの顔をみてから、また全ての歯車が狂いはじめたのだ。
しかも皮肉なことに、あの暴動のことを書いた記事で、わたしはピューリッツアまで受賞してしまったのだ、ハートマンは何の因果か、たまたまあそこにいあわせただけの男なのに、それなのにわたしは、彼がオハイオ州選出上院議員であることを知り、シンシナテイの極めて近所に住んでいただけではなく、アンドレアのクラスメイトであることまでつきとめてしまった。
ロースクールで学び、ニューヨーク市会議員となり、市長もつとめ、そして上院議員となったこの男が、アンドレアの奇妙な死にかかわりがあると確信するに至った。
だがそうじゃなかったのだ、この男に罪があるのではない、罪があるとすればわたしのなかにある、わたしを突き動かしていたもの、それはなにものかへの秘めた思いにして、ひそかな憧れであり、それは常にわたしのなかにあったのだ、そのなにものかは、すでにこの世のものではないというのに・・
そう調査をすすめていた際に、5歳のハートマン少年が、両親ともどもニューヨークにバカンスに来ていたときに、あのジェットボーイが死んで、無防備なる世界へのウィルスの散布がおこなわれたが、幸運なことに、ハートマン少年を含む一握りの人間には感染の兆候すらみられなかった。
そこでエースであることを隠しているのではないか、と直感したのだった。
だがそれは記者の勘に基づいたものではなく、感情が導き出した結論にすぎなかったのだろう、あふれるような憎悪が告げていたのだ、ロジャー・ペールマンじゃない、この男だ、ハートマンが殺したのだと、そしてその憎悪が9年のうちにそう信じこませてしまっていたのだろう。
目の前にいるこの男は、危険も悪意すら感じさせず、ただ忍耐強く、真摯な面持ちで立ちつくしているではないか・・
まばゆい太陽の光のもと、とまどいも迷いも過ぎ去った穏やかな表情でじっとみじろぎもせずにみつめるその瞳に、セイラは彼が痛みをかかえながら行政府のデスクで過ごしてきた日々に思いをはせ、この人が誰かを傷つけたり殺したりすることなどありえないと思うにいたった。
彼のしぐさ、瞳、そしてその声が、ハートマンという一人の人間のもつ、強いカリスマを際立たせているだけで危険な存在ではありえない、と・・・
サキュバスのことを持ち出したのは無神経でなかっただろうか?
人を殺した男が、底意地の悪いといわれている記者のまえでここまであけっぴろげになれるものだろうか?
これだけ暴力にまみれた人生をおくってきながら、ここまで他人を信用することなどできるはずもないというのに・・・
「結論を・・急ぐ必要はないのかもしれませんね」セイラの声。

「そう願うよ」ハートマンは穏やかに応じて、深く息を吸い込んでから陽光にくすぶっている廃墟を一望したのち、言葉をつないだ。
「うわさになるまえに皆のもとに戻った方がよさそうだね、まっさきにいいだすのはあのダウンズだろうけど・・」ハートマンは悲しげに微笑んでしめくくった。
そうして階下を目指して歩きはじめたハートマンを見送るセイラの心は、複雑怪奇にゆれていたのだ。
それなのにハートマンは、あろうことかセイラの傍らで立ち止まり、肩に手を置き語りかけてきたのである、その手は暖かくきづかわしげで、その表には思いやる表情が浮かんでいたのだ。
「わたし自身のこころの問題がサキュバスに投影されたためにきみを思い煩わせてしまったことを申し訳なく思っていることを伝えておきたかった」
そして肩から手を放した瞬間、不思議にも手があった肩はなにかを失ったかのように寒々しく感じられたのであった。
そうしてハートマンは壁面の蛇の頭をみつめながら言葉を継いだ。
「誰でもない、ペールマンがアンドレアを殺したのであって、わたしはたまたま君の人生にひきこまれたにすぎないのかもしれないが、できることなら仇ではなく友人でありたいと思っていることを覚えておいて欲しいんだ」
しばらくは答えを待つかのようにためらいがちにハートマンは傍らに控えていたが、セイラはいまの自分の感情の一切が信じられず、なにも答えを返すことができなかった。
アンドレアの巻き起こした様々な感情、蝕むような喪失感、苦々しさ、怒りなど様々な感情が千路に乱れて渦巻きおさまりがつかなくなっていたのである。
そうして必死に視線をそらしていたセイラの気持ちを察してか、ハートマンはいつのまにか姿を消していた。
それを確認したセイラは蛇の台座に崩おれて、頭を膝に抱え込み、ようやく涙を流したのであった。


一方下に向かっていたグレッグのこころは暗い愉悦で占められていた。彼のこころは陽光に溶かされるかのごとく、セイラの憎悪が霧消し、わずかなこんせきのみとなったことを感じ取った満足でしめられていたのであった。

あの女はオレの獲物なんだ、アンドレアやサキュバスのときとは違う道が選べるはずだ、あの女のことで、お前の手は借りない、オレ一人でやれる、お前は必要ないんだ。        

                 このつぶやきは誰のもの?                                    パペットマンは沈黙したまま・・答えはなかった。