ゴーストガール その2

        ゴーストガール、マンハッタンに現る
               その2

            キャリー・ヴォーン


Fadsファッズの前に別のバンドがステージに上がって演奏を始めたが、
そのときにはトリシアは完全に出来上がっていて、
ジェニファーが抱えることでようやく立っているという有様だった。
もちろん誰も気にしちゃいない。
ジェニファーもあまり気に病まないように努め、
トリシアのお守りをするためについてきたわけじゃないのだから、
とぼやきつつも、
放り出すわけにはいかないこともわかっていた。
結局トリシアがジェニファーを誘ったのは、
そうした性格を見越して無事家に連れ帰ってくれる相手を選んだ、と
いうことなのだろう。
ジェニファーも同じラムコークを飲んでいるはずなのだが、
トリシアはきっと何か薬も飲んでいたということか。
ともあれここはそうした常習者の吹き溜まりに違いあるまい。
室内は温室を思わせる熱がこもっていて汗と煙草にアルコールの匂いの
入り混じった息の匂いで満ちていて、
ステージにはいくつものバンドが入れ替わり立ち代りしていたが、
ファッズがステージに上がったと見て取るや、
トリシアは何かキィキィ叫びながら、笑いさざめく人々を掻き分けて前に
出ようとし始めた。
ジェニファーもそれに叫び返しながら後を追ったが、
おそらく聞こえてなどいないだろう。
ファッズには三人の男がいて、そのうちの二人はジョーカーだかなんだか、
ともかく異彩を放っているのは間違いない。
リードボーカルは長髪に、薄く白い鎖が絡んでいて、首の辺りまで伸びた先には、
安物じみた光ファイバーが輝いている。
ギタリストは普通よりも指が多いのではなかろうか、そうでなければ
あれほど奔放な音は奏でられまい。
ドラマーはというと、スパイクのように尖らせた髪と左の耳に安全ピンを留めては
いるが、普通の人間のようだ。
熱狂的ドラムに溢れんばかりのメロディーを迸らせ、
ボーカルは何かがなり立てているが、
ジェニファーにはほとんど歌詞が聞き取れず、
何を歌っているかわからないが、
親に対する不満やら、火を放てだの、
いつ爆弾が落とされるかわからないといったところは
かろうじて理解できた。
そうして演奏が終わり、叫喚が高まったところで、
「おトイレ」トリシアはそう言うと、突然ジェニファーの
手を掴み、倒れそうになりつつも、クラブの奥に引っ張って
いこうとした。
「ここに洗面所はあるかしら?」
ジェニファーは小首を傾げて、そう言い返したが、
トリシアは座った目を向け、
「ちっとも面白くない」などと言っている。
両側を黒い壁に挟まれた圧迫感の強い場所を過ぎ、
階段を下りていくと、確かにそこには洗面所があるようだ。
ジェニファーが下水を思わせる籠ったカビ臭い匂いに辟易していると、
トリシアはジェニファーの腕にすがってバランスをとって、
ドアノブを探り当て、女性用の洗面所に入っていった。
下水のような匂いは流れ出すように感じられ、はっきりしてきていて、
そこが発生源なのは間違いあるまい。
縁に模様のついた鏡の前には、女達が群がっていて、
めいめい目元の化粧を直したり、髪にスプレーをして
整えたりしていた。
トリシアはといえば、そこに何をしに来たのか忘れたかのような
呆けた表情で、ポスターやらステッカーやらが雑然と貼られた
壁にもたれかかっていて、
「素敵、最高」などと訳の分からないことを口にしている。
その隣には網タイツにチェック柄のスカートを組みあわせ、
革のビスチェを着た女が鏡をまっすぐ見つめていて、
他にも白い粉を弄ぶ女達の姿もちらほらあった。
ドレスを着た女が屈んで、コカインを吸っている姿も見える。
その内の一人が、「あなたもいかが?」と声をかけてきて、
「まだ余裕はあるの」と言い添えてきたが、
ジェニファーは反射的にかぶりを振って断りながらも、妙に座りの悪い感覚を
覚えていると、
「もちはやでお願いします」などと鏡に手を添えた女にトリッシュが応えた
ではないか。
しかも前のめりときたものだ。
ようやくラムコークの酔いが醒めたという局面で、
どれだけひどい有様になれば気がすむというのだろうか。
ジェニファーがそう思っていると、
トリシアは「そうだ、いいこと思いついた。」
目じりをこすり、ぱっと明るい表情をして、そんなことを
言い出したではないか。
「駄目、またにしましょう」
ジェニファーは悪臭がさらにひどくなったように感じながら、
そう言い含めようとしたが、
仕切りの向こうから
「なんてこと、流れやしない」などと最悪の声まで聞こえてきたではないか。
そこでトリシアはジェニファーの腕を掴み、ドアの方に首を巡らせ、
「追いかけるのよ」と言い放った。
「追いかけるって誰を?」
「ファッズを!トニーをね!ファッズに会うために来たんだから!」
「トニーって?」
リードボーカルなの!いかしてると思わない!」
トリッシュ、もう遅いと思わない?帰った方がいいわ」
「ちょっとよ、そんなに時間は掛からないから」
とかなんとか言い合いをしているうちに、
トリシアはふらふらと階段を上がっていて、
廊下を渡り、人気のない戸口に向かっていた。
壁には古いポスターやらちらしやらが貼ってあって、
見たところ数年はそのまんまといったものまであり、
その中のいくつかはジェニファーも名を知っているもの
だった。
ポリスがここで演奏したの?ブロンディーも?うそ?
ジェニファーのそんな感慨を他所に、
トリシアはするすると進んでいって、
離れてしまったものだから、必死で後を
追わなければならなくなった。
通路の先には人混みができていて、
その先は、奥の控室につながっていて、
そこでリードボーカルの男が、チラシの裏やら
チケットにサインをしていて、そこに女達が
群がっているようだ。
顔を包んだ髪が、ライトを受けて輝くさまは
何やら神々しくさえ思える。
バンドの他のメンバーはというと、隅の方に
追いやられ、目立たなくなっている。


ここに警備員はいないのだろうか?
などと思っていると、
「おいそこのあんた」
トリシアはその声に後ろを振り返り、
そこにいた男ににやにやした顔を
向けている。
その男は他の人間よりは年嵩で、20代
ではあるまい、30代ぐらいはいっているに
違いない。
髭は綺麗に剃られているが、険しい顔の
上に、黒い角刈りの髪が載っていて、
白いTシャツにジーンズ姿ではあるものの、
色褪せてはいても、どちらも高価なもので
あるのが見て取れた。
トリシアは話しかけられたのもよくわかって
いないようだったが、
「見かけない顔だな?」と重ねられた言葉に、
「誰、あたし」などと要領を得ない言葉を返し、
「一人じゃないの、連れもいるの」などと
妙な言葉を返し、上着をずり下げて、胸が
半分見えるような危なっかしい格好で、
サインをしているリードボーカルに視線を
向けている。
男はにんまりとした表情をして、
「一つどうだい?」
と言って、白く小さな錠剤の入った金属
ケースを見せていた。
トリシアはまた、手を振って拒絶の意思を示し、
「いらない、大丈夫、ありがと」とちゃんと
断わっていたようだったが、
「バンドの連中だってヤクの上客なんだぜ」
と言われると、
「あら」と漏らしたところで、
「こいつは内緒だがね、俺は曲なんかにゃ用は
ないってもんさね、誰にも言うなよ」とひそひそ声で
告げられ、ウィンクまでされているではないか。
トリシアをどうしようというのだろう?
何かひどいことを企んでいるのであるまいか?
トリシアは、驚きと困惑をその顔に留め、
どうしていいかわからないといった表情で
いるではないか。
「もう、何をやっているの?連れ帰ると決めた
じゃない」
そんなことを己に言い聞かせていて、ふと目を
離したわずかな隙に、バンドの連中も、トリシアも
姿を消していた。
「トリシア!」
そう呼んだところで、通りに面した裏口のドアから
出ていくところが目に入った。
そこにはキャディラックが止まっていて、裏口から
出たバンドのメンバーが乗り込んでいるところだった。
リードボーカルの男が、トリシアの腰に手を添えて、
車の中に押し込まれ、丁度手を離したところだった。
トリシアは何か叫んだようだったが、クラブから
轟いている騒音に紛れて聞き取れはしなかった。
「トリシア!」手をメガホンのように口に当て、
「トリシア!」もう一度そう叫んだが、
裏口のドアから通じる階段にヒールの先を引っ掛けて
転びそうになりながら、キャディラックを追いかけようと
したが、人混みに阻まれて思うようにはいかず、それでも
人並みよりは恵まれた身長ゆえ、忌々しいキャディラック
トリシアを運び去る様子を見つつ、身動き取れずにいると、
下唇から二本の牙を突き出して、黒い鱗に包まれた巨体の
ジョーカーが目前に立ちはだかっていて、
「よぉ、姉ちゃん、何をそんなに急いでるんだ?」などと
呑気に声をかけてきたではないか。


「友達が……」ともどかしい気持ちでそう応え、
「連れ去られたのよ、わからないの?
無理矢理だった。連中に誘拐されたのよ」
男は笑顔を返してきた。
牙を剥いた顔はブルドッグのようだった。
「姉ちゃん、あっちはお愉しみなんじゃないか?」
などと言い出したものだから、
ジェニファーは驚いて、
「見て御覧なさい」そう言い返し、トリシアを
連れ込んだ車を指差して、
「冗談じゃない。泥酔して意識をなくしてたのよ」
「自分が置いてかれたものだから妬んでるじゃないか?
こっちはこっちで愉しもうじゃないか?」
などと言ってまた笑顔を向けてきたものだから、
「助けなきゃ」と返したが、腕を掴まれて、それを
振り払った。
男は別に気分を悪くはしていないようで笑顔のまま
だった。
トリシアは誘拐されたのに、皆それをみていたというのに、
どうにもならなかったのだ。


そこでジェニファーは洗面所の近くに公衆電話があった
のを思い出し、中に戻って、階下に降りてみた。
記憶は正しかったようで、そこに電話はあって、
しかも運がいいことに壊れてはいないようだ。
あまり綺麗でない受話器に顔を顰めつつ、
気にしないように掴んで、ダイアルを回していた。
電話は囲いで覆われていて、騒音を遮ってくれて、
問題なく電話できて、
「警察につないで頂戴!」
自分の声が上ずっているのを感じながら、唇を
舐め、気を落ち着かせながらいると、
「派出所ですか?」と声が返されてきた。
「そうよ、お願い、友達が誘拐されたの……」
「何ですって?」と声が聞こえてきた。
どうやら向こうは聞き取りにくいのだと判断して、
「友達が!ゆ・う・か・い・されたの!」
と叫んでみたが、
「お嬢さん、何があったんです?」と訊き返されて、
「私たちはクラブに来ていて、誰か、そうバンドの
誰かが、あの娘は車に連れ込まれて、泥酔していた
ものだから、どうにもならなくって……」
「おいおい」電話の向こうの男は困った様子で、
「パーティがお開きになって、それでバンドの
人間と帰ったと……」
「そうじゃないの。泥酔していて、連れ去られた
と言ってるの!」
「どこから電話をしておいでですか?」
躊躇いながらも「ここはバワリーのクラブで……」
と応えてたところで電話は切れていた。


フックに叩きつけようにして受話器を置いて、
どうしてこんなことになった?
トリシアをどうしたら取り戻せるだろうか?
もう二度と会えなくなるのではなかろうか?
散々弄ばれ、どぶに死体が捨てられていたら
きっと私のせいに違いない。
そんなことを千々に思いながらも、
今度はすぐに電話が切れないように硬貨を
余分に用意しておこう、と思いはしたが、
バッグの中にはほとんど残っておらず、
ため息をつきながら、辺りを見回して、
誰も見ていないのを確認し、素早く電話機に
手を添わせ、中に手を差し込んでいた。
手の構造を変化させ、空気のように
物体をすり抜けることができるのだ。
わずかの間中を探って、硬貨の入って
いる場所を確認し、数枚掴んで、手を
引き抜いた。
掴んだ物質も、手と同時に分子構造を
変化させることができるのだ。
これで硬貨は手に入った。


あれは5年前の14歳の時だった。
オレンジジュースの入ったグラスを
掴もうとして、それを落としたのが
最初だった。
グラスが手をすり抜けていったのだ。
オレンジジュースが飛び散って脚に
かかったまま、しばらく呆然と透明に
なった手を見つめていて、もはや
元には戻らないのじゃないか、と
思いつめていると、台所に母が入って
きて、どうしたの、と訊いてきたもの
だから、とっさに手を後ろに回し、
隠していると、
よくあることよ、たいしたことじゃない
と言ってくれて、母がいなくなった後に
手を見てみると、普通の状態に戻っていた
のだった。


それから試行錯誤の日々が始まった。
はじめは怖くてならなくて、
このまま身体が薄れていって、しまいには
完全に消えてしまうのではないかと怯え、
眠っている間に、この世から消えてしまう
のではないかと不眠症にもなった。
それでもなんとか力をコントロールする術を
学んで、引き出し、学校のロッカー、
父親の宝箱と次々と手を伸ばした。
こうしてエースらしきものになりはしたが、
けしてそのことは誰にも漏らさなかった。


そんな感慨に耽りつつ、10セント硬貨を
何枚か投入し、ダイヤルして近くの派出所に
つないでくれるよう頼んだ。
巡査部長と思しき男が出て、今度は落ち着いて
話せて、尚且つ必死さは伝わり、まともに
取り合ってもらえたかと思ったが、やはり
電話は切られてしまった。

涙に暮れ、階段を上ると、別のバンドの
演奏が始まっていて、ステージから響く
金切り声が壁に反響しているかのように
耳に響いてくる中、人混の中とぼとば
歩いていると、誰かの呼ぶ声が聞こえた
ように思ったが立ち止まらず、幻聴と
判断して聞かずにいると、辺りはどんどん
暗く不穏になっていて、喧噪は激しくなり、
演奏はますます暴力的なまでに響いてきて、
隅の方を歩き、クラブの正面、開いたドアに
向かいながら、
役に立たないエース能力なんかあって何に
なる?
誰も助けられはしないじゃないか?
せめてどこに連れていかれたか読める
能力でもあればどうにかなったのじゃ
ないか?
それか飛べれば、車の後も追えたのじゃ
なかろうか?

そんなことを考えながらも、正面のドアを
出て、中よりましな空気の下に出て、
出たり入ったりする人混みを見つめ、
正面の煉瓦の壁に凭れ、汗で顔に張り付いた
髪を払いのけながら、
直接交番に行くのはどうだろうか?
バンドのことを知っている人間を探すのは
どうだろうか?
例えばマネージャーのような人間ならば、
彼らの行方を知っているのではあるまいか?
そんなことを考えていると、
「おい、Kids坊主、どうかしたか?」
錠剤を持った白いTシャツの男から声を
かけられた。
男は外にずっといたか、もしくは出て
いったのを見ていて、後をついてきたか
どっちかであるに違いない。
男は壁にもたれて座り、掴めもしなければ、
手を触れもできないぐらいの距離を保って
いる。
そこで少し警戒も緩んでいて、
「なんでそんなに気になるの?」
そっけなく見えるように、視線を逸らしつつも
そう返していた。
もちろん関心をもたれたいわけではないし、
さほど関心をもっているわけではあるまいと
高を括っているところもあった。
ぽろぽろ涙を流しながらも意を決し、
「友達のトリシアが、いなくなったのに、
誰も気にしなければ、何もしてくれない」
そう零していたのに、
「嫌われたんじゃないか?あんた」
妙な笑みを浮かべてそう返されて、
「違う、そうじゃない。攫われたの。
バンドのメンバーが、泥酔したあの娘を
車に連れ込むところを見たんだから……」
「あんた抜きで別のパーティーに行ったん
じゃないってどうしてわかるんだ?」
「私を置いて?ありえないわ」
トリシアが実際は泥酔していなくて、
単に置いていったのじゃないかという
思いを首を振って涙ごと振り払いつつ
そう応えると、
「まぁいいや」と男は返し、
「二次会の会場なら知ってるから、
そこに連れてってやろうか?
どうだい?」と継がれた言葉に、
「本当でしょうね?」と返しつつ、
今度は自分が騙されていて、車に
連れ込まれるのじゃないかと考えて
いると、
「ほんとだよ、数ブロック先でたむろ
してるのはわかってるんだ、今すぐ
かけつければ間に合うかもな」
顔を逸らし、気になっているのを
悟られないようにしていると、
「連中のパーティーには上物の薬がつきもの
でね、気になっちゃいたんだ、行くかい?」
と被せられ、
「トリシアが間違いなくそこにいると
いうのね?」
「バンドと一緒なら、多分いるだろうな」
男は先に歩道に出て、腕を曲げて示す、
妙に古めかしい仕草をして見せ、腕を
組むよう促された。
そこでジェニファーはそれを受け入れる
ことにした。
とはいっても腕を組んだわけではなく、
黙ってついていくことにしたのだ。
抵抗を感じるよりも、この状況を
愉しくも感じている自分がおかしくも
あった。


それから1ブロックほど歩いたところで、
CBGBから漏れていた音は聞こえなくなって
いて、パンクな色彩が薄められて、人混みの
喧騒が混ぜ合わされたような妙な空気に
とって代わられていたかと思っていると、
戸口から出てきたジョーカー達と視線が
合いそうになって、視線を合わせないように
して、うつむき加減に歩き、目立っていない
よう祈っていると、クラブから出てきた男は、
ひなたのセントラルパークを歩いているかの
ように、先をゆったりと歩いていたかと思うと、
「であんたの名は?」
そこで沈黙に耐えかねたようにそう投げかけてきて、
「ジェニファーよ」何か別の名を言うべき
だったかと思いながらも、ありふれた名
だから、問題あるまいと考えてそう答えていた。
どっちにしろバワリーに知り合いなどいないと
高を括っていたというのもあった。
「ジェニファーか、よろしくな、俺はクロイドだ」
「じゃそういうことで」
などともごもごとぎこちない笑みと共にそう応えた
ところで、
「急いだ方がいいんじゃないかな」と出し抜けに
言われたものだから、
「別にコロンビアまで行くわけじゃないでしょ」
と強張る表情を整えて、そう言い返しながら、
なんでこんな子供っぽい言い方をしたのだろう?
と思っていると、
「まぁな、そういや、あそこにはいい学校があるん
だってな、それはそうとして着いたぜ。
あそこの階段を上がった先だ……」
確かに屋上の方からパーティーと思しき音が響いて
いるではないか。
今度こそ期待できるのではないか。
バンドの連中がここにいるならば、
トリシアもここにいるに違いない。
勇んで飛んでいきそうな気持を抑えていると、
クロイドは親切にも脇に退いて先に上がらせて
くれた。
階段を駆け上がり、倉庫のような部屋に入って
いくと、そこはみすぼらしいロフトになっていて、
床はコンクリートのうちっぱなしのまま、
折り畳みテーブル上にはターンテーブル
ステレオ、大型スピーカーまであって、
そこからクラブで流れているような激しい
音が流れ出してはいても、踊っているもの
の姿は見えず、それだけの広さもないよう
だった。
それでも話し声どころか、互いに叫びあって
いるような声が聞こえている。
どうやら一方の壁には、屋上に通じた観音開きの
ドアがあって、その向こうでパーティーが続いて
いるのが見て取れた。


さてこの中からどうやってトリシアを見つけ出せば
いいやら。などと思案に暮れていると、
そこを取り仕切っている男がジョーカーであって、
中肉中背でありながら、薄い青い毛皮で覆われている
のはわかったが、目や口は影になって良く見えず、
細かいところまでは判断しかねていると、
「欲しいものがあったら、代価をそこの壺に入れて
くれや」と言われ、テーブルの端に置いてある、お金の
入ったぬか床でも入っていそうな壺を指し示された。
「友達を探してるだけなの、バンドと一緒にいると
思うんだけど、多分、ファッズというバンドだと
思うの、見てないかしら?」と返すと、
「ファッズだって?」毛皮の男は身を乗り出し、
口元の毛皮を波打たせてそう訊き返したから、
「そう、私より小柄で、栗色の髪をした娘なんだけど、
知らないかしら?」迫力負けしているのは自覚しつつ、
そう叫び返すと、
「見てないな、いないんじゃないか」とそっけなく
返されて、
「本当に?彼らはCBGBでいつも演奏してるバンド
なんだけど……」
「そのバンドなら知ってるぜ!
どこでいつも演奏してるかもな。
なんにせよここにゃいないぜ!さて
それでここにもう用はないだろ?」
そう返されたところで、もはや問答は無用と、
男を押しのけて、見渡してみたが、クロイド
がどこにいるのかさえわからなくなっていて、
驚きはしたが、これ以上悪くはなるまい、と
かえって腹が座ってきた。
そこでバンドの連中がどこにいるか知ってる
人間を探さねば、と思い定めた。
実際望み薄ということはあるまい。
バーテンを捕まえて、どこにいるか訊きだすと
いうのはどうだろうか。
そう考えて振り返った時だった。
ヒールに躓いて女性に向けて倒れこんで
しまったのだ。
もつれて二人とも、床に身体をうちつけそうに
なりながら、何とか踏みとどまった。
20代くらいの美しい、襟の開いたニットドレスを
着た繊細な感じを持つ女性で、唇を嚙んだ険しい
表情をしていて、何か思い詰めているのじゃないか、
と思いつつ、
「お怪我はありませんでしたか?」と声をかけると、
女性はようやく焦点を結んだといった表情で、
ジェニファーに視線を向け、唇を固く引き結び、
何かを決心したといった感情を伺わせて、
「これを預かってくださいませんか?」と言って、
プラスティックのタグのついた鍵束を押し付けてきた。
ジェニファーは渡された鍵束を見つめ、呆然としていると、
女はジェニファーを押しのけ、視線を向けたときには、
すでにそこにはいなくなっていた。


「なにこれ」そう口に出し、
辺りを見回してみたものの、
誰だかわからなければ、どこに行った
かもわからないときたものだ。

そこでガシャンという音が響き渡り、
どうやらバーのボトルが割られたようだ、
とジェニファーが思っていると、人々は
叫んで屈みだした。
どうもやばい雰囲気だと思いつつも、
何が起こったか掴めず、莫迦のように
突っ立っていると、
男の一団が階段を上がって、姿を現した。
男は4人いて、ギャングのようないで立ちで、
どれも大柄で屈強に思える。
彼らはいずれも、ジョーカータウンでよく
見かける安っぽいハロウィーンマスクを
付けていて、手にはハンドガンを提げている。
一人が天井に向かって発砲して、そのまま
銃口を上に向けている。
ジョーカーだかどうだかわからないが、
腕も脚もケーブルのようなごつい筋肉に
覆われていて、首もかろうじて見分ける
ことのできるほどだった。
もう一人は明らかにジョーカーで、
手や爪が毛皮で覆われている。
他の二人はナットではあるまいか。
もちろんマスクで覆われている以上、
その下がどうなっているかなど知る由も
ないわけだが、
ジョーカーであろうとナットであろうと、
粗野で苛々しているのは間違いあるまい。


ジェニファーも心のどこかで、こんなことが
行われていることを知ってはいたし、どっちみち
トリシアもこんなところに連れてこられたら、
殺されてもおかしくはないだろうということも
わかってはいた。
もちろんそれもまだ殺されていなかったら、という
話だけれど。


「ここにいるのはわかっているんだぜ!」
銃を手に持った大柄な男がそう叫んで、
前に出て、人々の顔を見て回り始めた。
それで屋上にいる人々はパニックに陥っていたが、
ジェニファーに鍵束を渡した女性はもういない……
ジェニファーは無意識の内に、手にした鍵束に
視線を向けていた。
それが間違いだった。
手に小さな物体を掴んでいるのが目についたのだ。
さぞうろたえて立ち尽くしていたに違いない。
男は舌なめずりせんばかりの顔をして、
ジェニファーに向かってきた。
心臓が跳ね上がり、肌に悪寒が生じ、後ずさったかと
思うと、ジェニファーは落ちていた。
落ち続けた。


目の前が真っ暗になって、意識が跳んだのも一瞬の
ことだった。
視界が闇に覆われたかと思うと、身体がヘリウム並に
質量を失い、ばらばらになって薄れ、全ての毛穴が
開いたかのように感じ、上下に揺さぶられ、呼吸が
できなくなったと思っていると、


突然ジェニファーの前に世界が戻ってきた。
咳き込みながらも呼吸できるようになっていて、
壁が自分から離れていくのを感じていた。
どうやら落ちていたのは数秒のことだったらしい。
床に落ちた時には一切が変化していた。
そこは屋上のバーではなく、人影一つない暗い
部屋で、銃を持った男達の姿も消え去っていて、
そこでようやく胸を撫でおろしつつも、
いやそうじゃない、誰も消えてなどいないのだ。
と思い直し、見上げて、天井に梁、通風孔を見つめ、
あそこから落ちてきたのだ、と思い至った。


一糸まとわぬ姿で、足を閉じ、胸を隠して、
寒さに震えていた。
幽体化して、床を通り抜けたときに、服も
一緒にすり抜けてしまったのだ。
そうして座り込んでいるのは、リノリウム
床の上で、酒屋の裏手の部屋であることが
わかった。
クアーズパブスト、ハーンといったラベルの
ついた段ボール箱が積みあがっていて、正面の
入口に通じる裏口の扉が見て取れた。


どうやって実体化できたのだろうか?
もし何か物があるところで実体化していたら
どうなっていただろうか?
考えるだにぞっとする。
そんなことを思いながら、天井を見つめ、
オレンジジュースのグラスが手をすり抜けた
ように、今度は身体全体が床を通り抜けたのだ、
ということは理解できていた。


壁を通り抜けることができるのだ。
そんな感慨に耽りながらも、色々試してみなくては、
とは考えていた。


裸になるとわかっていて、壁を通り抜けるというの
はあまりよろしくない。
と思いながらも、手を固く握りしめ、鍵束は掴んだ
ままであることに気づいた。
掴んだまま、壁を通り抜けていたのだ。


そこで裏口のドアがバタンと音を立てて開かれた。
ジェニファーは咄嗟に、箱の影に身を隠し、ブーツの
ものと思しき足音に耳を澄ましつつ、考えていた。
ギャングが追ってきたのだろうか?
だったらやらなければならないことは明白だ。
もう一度床をすりぬければいい。
ただどうやってそうしたかわからないけれど。


「おいKids坊主、ジェニファーって言ったか、
ここにいるんだろ?下水まで落ちてたらどうしようかと
思ったぜ」
それはクロイドの声だった。


「ここにいるのはいいけど、その……
服は一緒にきたわけじゃないの、だから……」
「わかってる。だから持ってきてやったのさ。
ところであんたエースだったんだな。
どうして言わなかったんだ?」
「誰にも話してないの。だから誰も知らない。
今のところは、だけれども……」
「それが利口というものかもな」
クロイドの声は特に驚いた様子のない、
淡々としたものだった。
「そんな力があるなら、もっと有効な
使い方があると思わないか?
そういや53年だったか?ファッズに捕まり
そうになったときに、運よくやりすごせた
ことがあったっけ……」
「何の話?」
「まぁいいってことさ」
そんなやりとりの後、ようやくドレスから
手を放してくれた。
それを掴むと、クロイドは気を利かせて
向こうを向いてくれた。
慌ててドレスに袖を通した。
下着もちゃんともってきてくれたようで、
靴もそこにあったが、身に着けていた
宝飾類だけは見当たらなかった。
どうなったかわからないにしても、
それだけで済んだのは幸いと言えよう。
身なりを整えながら、
「あれから何があったの?
あの連中はどうなったかしら?」と被せると、
「訊きたいのはこっちの方だ。
一体何をしでかしたんだ。
なんで追われてるんだ?」と返されて、
「何もしてないわ。巻き込まれただけよ、
女の人からこれを渡されたの……」
そう言って鍵束を示して見せつつ、
タグに51337という番号が
つけられているのに気付いた。
「まぁ間が悪かったということだろうな」
「トリシアを見つけ出して帰りたいだけなのに……」
サンダルを履きながらそう応えていると、
「やばい」クロイドはそう言って、
「ここから出た方がいい」そう言い添えていた。
「ねぇ、どういうこと?」そう訊き返しつつも、
開いた扉の向こうに視線を向けると、
ギャングが追ってきていた。
リーダーと思しき男が路地に面した扉の前に
立ちはだかり、その巨体で通せんぼして
いるときたものだ。
このままでは二人とも撃たれてしまう。
床に沈むにはどうやったらいいだろうか?
もしそれができなければ、一体どうなって
しまうだろうか?
どうやっていいかわからないというのに……
そう逡巡していると、


Frezezeフリーズ(動くな:固まれ)」
クロイドがそう叫び、ギャングは口を開きかけたが、
そのまま動けないでいるようだった。
クロイドはやれやれといった仕草をしたものだから、
ジェニファーはクロイドを見つめ、
「あなたエースだったの?」と食って掛かっていた。
クロイドはきまりの悪い顔をして、
「あぁ、まぁそんなところさ。
正確に言うならDeuceデュース(二の札:限定能力者)
だがね」
「それだとどうなるの?」
「5分しかもたないということさ。
すぐに離れた方がいい」
クロイドがそう応え、固まった男を押しのけると、
二人で走り出していた。
何回も角を曲がり。その度に、追ってきている
者がいないことを確かめ、どこを走っているかも
わからなくなりながらも、何らかの助けが必要なの
ではないかと考えていた。
警察に駆け込んだらどうだろうか?
そうしたら助かるのではなかろうか?


素性の知れない男と、こうして逃げ回っていると
いうのは莫迦げているのではなかろうか……


そんなことを思いつつ、何回か角を曲がったところで、
茶色い石碑のようなものの前に出た。
その陰には、ジェニファーは気づかなったが、隠された
入口があって、そこでようやく息をつくことができた。


「そいつを見してみな」クロイドはそう言って、
ジェニファーが手に握っている鍵束を示した。
渡すのは抵抗があったものだから、上に上げて、
見やすいようにしていると、
「郵便局の私書箱番号じゃないかな」
「そうなの?」足にできたまめの痛みに
顔をしかめながら、そう訊き返すと、
「渡す人間を間違えたんだろうな。
おそらくドラッグか盗品か、そんな
ところだろうな。
その女は鍵を渡そうとした。
それは連中が受け取ろうとしていた盗品だか
現ナマだかにつながっているんだろうな。
そういった騙し合いの渦中に、あんたは
飛び込んじまったわけだ……」
「そんな話、なんの慰めにもなりはしないわ」
そう言ったが、
「こいつがどういった代物か知る手段なら
心当たりがあるぜ」
クロイドがそう言って、鍵に手を伸ばしたもの
だから、後ろに隠すようにして、
「トリシアはどうなったのかしら?」と話を
変えてみた。
「誰だって?」
「誘拐された友達の名よ」
「無事だと、思うぜ」
「見つけださなきゃ!」
「この鍵が何だかわかったら、あんたに協力
してやってもいい」
「まぁそうしてくれたらそれにこしたことは
ないけどね」
「じゃそういうことで」クロイドはあまり
申し訳もなさそうになく、諸手を広げて
そう応じ、
「先に俺の知ってる女のところに行くぜ。
そう遠くないところだ。そいつを済まして
から、トリシアを探しに行こう。何箇所か
心当たりがあるからな、それでいいかい?」
唇を尖らせながらも、他にどうしようもない
のもわかっていて、
「それでいい」と応えると、
クロイドはピルケースから錠剤を取り出して、
「それじゃ、行こうじゃないか」と陽気に宣言し、
歩き出した。
あまり治安の良い地域ではないらしく、数ブロック
歩いても、タクシー一台すら出くわしはしなかった。
たとえ何かまずいことが起こって、縛り上げられた
としても、ロープを抜けるのは容易いだろう。
なんせ壁をすり抜けることができるのだから、
と己に言い聞かせていると、
クロイドが何か話しかけてきたが、無視することに
務めていると、クロイドは気分を害したようで、
「おいおい、俺は協力してるんだぜ、別にあんたを
動けなくしてから鍵を取り上げてもよかったんだからな」
と言ったものだから、
「そうしなかったのは、言葉巧みに銀行に押し入らせたり
とか何だか、させるつもりだったからじゃないの」
そう返したが、応えは返ってこなかったものだから、
さすがに苛々してきて、
「まさかほんとにそのつもりじゃないでしょうね?」
と早足になりながら、怒りをぶつけると、
「ああ、それもいいかもな」と自棄になったような
言葉が返されて、クロイドも早足になっていた。
ジェニファーもヒールのついた履物でなければ、
さらに早足になっていたに違いない。
「考えていてもおかしくはないというものさ。
あんたのような力は、なかなか望んでも得られる
ものじゃないからな」
「望んで、ですって?こんな能力欲しくなかった。
なければいいとさえ思っているわ!」
「おいおい、街の子供はみんなエースになりたがって
いるもんだ、新聞に載ったり、エーシィズ・ハイで
いいものを食べるのを夢見ているんだぜ」
「だから何なの?冗談じゃない。
私はロングアイランドで育ったのよ、
ほっといてこそもらいたいもんだわ」
と怒りを顕わにすると、

「ゴーストガールってのはどうだい?」とクロイドが
突然言い出して、
「ゴーストガールですって?」
「エースネームっていうやつさ。
新聞の見出しになるぜ。
エースの宝石泥棒再び現る、ってな」
そう言って茶化したものだから。
「ゴーストガールは嫌」そう応えて、
否定してのけながら、もっと相応しい
神秘的で、魅惑的な名はないかと考えつつも、
「あなたにはエースネームがあるのかしら?」
そう訪ね返すと、
「スリーパーだよ」と応えたクロイドの顔に、
薄い笑みが唇に浮かんだかと思うと、それも
すぐに消えていた。
あまり気にいってはいないということか。
「妙な響きね。でもフリーザーよりはまし
だと思うの……」そう返すと、クロイドは
黙って肩を竦めてみせて、
「まぁそうだろうな」と言ったところで、
立ち止まり、道を確認しているようだった。
辺りは、街灯が壊れているのか薄暗く、道に
面した店先には、重い鉄の柵がついている。
ジェニファーは気が重くなるのを感じながら、
悪い予感を振り払うように目を逸らしていた。
ここはジョーカータウンで、ここに相応しい
流儀があるのに違いないが、自分のドレスが
妙に場違いに思え、裸でいるような居心地の
悪さを感じつつ、
「ここって安全なのでしょうね?」震えを
堪えながら、そう訊くと、
「それは本気で訊いてるのか?
まぁ立ち止まらなければ安全と言えるかもな……」
そう言って角を曲がった先には、骨組みのみが
残された、ビルの残骸のような場所があって、
どうやらジョーカータウン暴動の際に焼けて、
再建されることのなかった建物のようだった。
その光景はジェニファーにとって、以前なら
けして交わることのなった新しい世界、神の
僥倖のようにすら思えた。
ワイルドカードウィルスに対して何も知りは
しなかった。
エースではなく、ジョーカーになっていたかも
しれないのだ。
もちろんそんなことは考えたくもなかったわけ
だけれど。


そんなことを考えているうちに、どうやら
バワリーの、どちらかというと南側に戻って
きたのがわかった。
路上は人混みで溢れんばかりであり、こんな
深夜に活況を呈しているなんてジェニファーは
思いもしていなかった。
一晩中開いているバーやダイナーがあって、
路上にいくつかのグループがたむろして
いるようで、女性たちのグループの中には
見知った顔もあって、何をしているかも
見て取れた。
巨大なブームボックスから大音響が響き
渡って、騒々しいことこのうえないが、
もちろん警官の姿はない。


上にネオンの看板が掲げられた店の前で、
「ここだよ、だちの一人がバーテンを
してるんだ」とクロイドから告げられて、
ジェニファーは少し離れて上を見上げて
見ると、ビルの前には、胸が6つある
女のネオン看板が、赤と金色で彩られ、
どぎつく輝いていた。
光は点滅しているようで、胸は揺れて
いて、その女の周りに花火が噴出して
いる。
看板の他の部分には、紅いネオンで
<フリーカーズ>という店名が点滅
していて、ジョーカーガールズだの、
XXXホットXXX!だのいった決まり文句
も添えられていて、入口はストリッパーの
ネオンの開いた脚の間にあった。
「Oh my God(やだ)」と思わず、
ジェニファーが口にすると、
「みんな同じ反応をしやがる」
クロイドはにやにやしながらそう言った
ものだから、
「まさかここに入るんじゃないでしょうね?」
「もちろん入るのさ」
そう言ってジェニファーを引っ張って
いきながら、クロイドは人混みを悠々と
縫って進み、さも当然といった風に、
路上に桃色の光を投げかけているネオンの
踊り子の脚の間の扉のところまで歩いて
いくと、扉の前に用心棒と思しき男が
立ち塞がっていた。
男は、額からテキサスロングホーンを
思わせる一対の角を生やして、手の
代わりに蹄を持つジョーカーだった。
「なぁブルース、入れてくれていいだろ?」
ト」クロイドが話しかけたが、
「あんた一体……」と言いかけたところに
「俺だ、クロイドだ」と言葉を返し、
「証明できるか?」と返されて、
「前に来たときは、青い双子と一緒で、
テキーラを引っ掛けてた……」
と返ってきた言葉に、男は目を丸くして
驚いていて、微かな親しみすら感じさせる
笑みを浮かべて、
「ああ、あんたか、また随分ましな見栄えに
なったもんだ」
そう言って、二人とも通してくれた。
「知り合いなら、どうしてあなただと
わからなかったの?」
ジェニファーがそう疑問をぶつけると、
「まぁ話せば長くなるから、鍵のことを
先に片付けようや」そう言って流された。
ジェニファーはようやく洞窟のような薄暗さに
目が慣れてきて、母屋と思しき部屋に入ったのが
分かった。
そこはミラーボールが点滅する光を反射していて、
音が騒々しく反響している以外は、居心地の良い
部屋と言えた。
そういえばこのクラブのことは聞いたことがある。
その話通り、真ん中に回転ステージがあって
その上でストリッパーが
踊っている。
そのストリッパーは、背の高く艶っぽい
現実離れした女性で、くすんだ紅い髪を背中に
靡かせ、真鍮のポールに脚をかけ、回転すると
同時に、お尻の辺りから微かに突き出した、
蜥蜴のような細身の尻尾をぴょこぴょこ
跳ねながら、黒い繊維のブラを剝ぎ取って
見せていた。

ジェニファーが周囲を見渡してみると、ステージに
寄り掛かり、酒に慰めを得つつ、かぶりつくように
ダンサーを見ている男のナットの一団が目に
ついた。
そしてクロイドはというと、バーカウンターに
向かったようだった。
カウンターの奥に目を凝らすと、そこには女性と
思われる人が佇んでいた。
というのも頭らしきものが見当たらず、寄せて上げる
タイプの黒いブラに覆われたお腹の真ん中に、
それらしきものが浮かび上がっていて、肩の辺りは
黒く長い髪で覆われている。
その人はカウンターの中を布で拭きながら、クロイドに
微笑みかけていた。
「調子はどうだい?シェイラ」
クロイドがカウンターに肘をついて、薄い笑みを
浮かべて見せ、そう声を掛けると、
「悪くないわよ、ハニー、随分久しぶりね」
「ちょっとここを離れてたもんでね」
「今回は随分と身なりがよくなったわね。
それを愉しんでるんじゃないかしら?」
そんな会話を交わし、腰をくねらせ、
片目をつぶって見せた動作は魅力的な
仕草であるといって差し支えあるまい。
まぁ実際どう見えるかというのは……
言わぬが花といったところか。
ジェニファーは腕を組んで立ち、
落ち着いて見えているよう祈っていると、
バーテンのシェイラはジェニファーを
舐めるように見て、
「新しいお友達かしら?」と訊いていて、
「協力者ってとこかな」とクロイドが応え、
「ジェニファー、あの鍵を出してくれないか?
大丈夫なのは保証するから……」
と言葉を継いでいた。
不承不承ながら、鍵を取り出すと、
「よろしいかしら?」
シェイラは、ジェニファーが頷くのとほぼ同時に
鍵を掴んでいて、そのジョーカーは目を閉じると、
額と思しき辺りに、鍵を押し当てたところで、
ホール・アンド・オーツの曲が終わり、蜥蜴の
尻尾を持つジョーカーが滑らかな動きで退場していって、
代わりに鱗とかぎ爪のついた脚を持つ鳥のような女が登壇し、
スーパーフリーク>が流れ始めた。

そのほんのわずかな後に、シェイラが口を開き、
「Doyersドイヤーズ街の郵便局が出どころのようね。
それしかわからないわね、申し訳ないけれど……」
そう言って髪に覆われた肩を持ち上げ、竦めるよな
仕草をしてみせていて、そのまま鍵をクロイドに
渡そうとしたものだから、ジェニファーは横から
手を出して、鍵をかっさらっていた。
そのまま微笑んでいるジョーカーの女に、
「礼を言うよ」クロイドはそう言って、
「貸し一つだ」と言葉を添えていた。
「いつでもいいわよ、ハニー」
そんなやり取りの後、バーを離れ、
「どういうこと?」とクロイドに訊ねると、
「シェイラはサイコメトリックなんだ。
物体に触れることによって、それがどこに
あったかを知ることができるんだ」と返されて、
「役に立つ能力ね」と応えると、
「壁を通り抜ける能力も役には立つさ。
それが使いこなせたならね」と返された。
ジェニファーはステージを見ないようにしていると、
ステージ脇にある個室の入口が開いていて、
その向こうに座っている男の姿が見えた。
あの尖った髪は、ファッズのドラマーに違いない。
クロイドから離れ、そこに向かって駆け出していた。
ステージに面したこじんまりとした部屋で、
黒い毛足の長い絨毯の上に、紅いビロード張りの
椅子が置いてある控室で、壁に掛かった
装飾入りのブラックライトがちかちか明滅し、
ステージの上で踊っている白いビキニの女達を
眺めているようだった。
ステージ上の女を見て確認したが、どちらも
トリシアではないようだ。
とりあえず安堵の息を吐き、男のところに
向うと、女の一人のパンツの上に、申し訳
程度の布が巻いてあって、そこに挟まれた
チップと思しき札に手を伸ばし掴み取っていた。
ステージ上の女の肌が光を放ち、青から赤、
そしてオレンジと目まぐるしく変化していて、
その男が紛れもなく、あのドラマーであることが
判断できた。
ジェニファーがにじり寄って、札を落とした男に、
「トリシアをどこにやったの?」と言葉を被せると、
「おい!」そう言って腕を振り上げた男は、
「てめぇ何のつもりだ?」と喰ってかかってきた。
気にせず、「バンドの他のメンバーはどこに
行ったの?トリシアはどこ?」と畳みかけると、
ドラマーの男は口ごもったが、ジェニファーは
「こんなところで何をしているわけ?
女を連れ込んで、お金をせびっているの?」
そう責め立てると、
「金に汚いのは間違いないね」といつの間にか
近寄ってきていたクロイドがそう言って、
まるで面白い出し物をみているかのように
にやにやしているときたものだ。
ドラマーの男も観念したのか、肩を竦めて
みせていた。


ジェニファーはたまらず、「トリシアはどこ?」
と叫んだが、
「おい、Babeねえちゃん、そんな女は知らないぜ」
と返されて、
「バンドの」クロイドがそう言って、
「他のメンバーはどこに行ったんだ?
この娘のお友達を連れていったんだそうだ」
と訊き返すと、
「そういやおかしな女がいたな?ぶっ飛んだ奴だった」
「多分、トリシアだわ」
ジェニファーが呆れてそう漏らすと、
「あぁそうかい、多分トニーと一緒だぜ」
「どこなの?」
「言うわけないだろ、ストーカーだったら
どうする」
「そんなわけない。トリシアは、かもだけど。
私は連れ帰りたいだけだから……」


そんなことを話していると、クロイドに肘を
つつかれて、入口の方を見るよう促されると、
ついさっき屋上で出くわした巨漢のギャングが
そこを通り抜けたところだった。
「裏口がある」クロイドはそう囁いて、
「そっから逃げよう」そう言葉を継いでいた。
おそらく鍵束を持っていたのを見られて、
目をつけられたに違いない。
ドラマーの鼻先で鍵束を掴み直して、
「さぁ逃げましょ」そう言い放ち、
クロイドの後に着いて行って裏口を
目指した。


家具がひっくり返され、女達の悲鳴が響いて、
混乱は察することができたが、ジェニファーは
あえて振り返りはしなかった。

更衣室に面した通路を過ぎ、裏口から薄暗い
路地に出た。



「でどうするつもりだ?」クロイドからそう訊かれ、
「鍵がどうこうじゃなくて、開いた先に何があるかが
多分問題なのでしょうね」
ジェニファーはそう言うと、
「連中より先に郵便局に行く必要があるということね」
と言葉を継ぐと、
「そうか?じゃ行こうじゃないか」と返され、
できるだけ音を立てず進みながら、後ろから、
叫び声とか足音が聞こえないか耳を澄まして
みたが、追ってきてはいないようだった。
とはいっても、今のところは、だが……


「そんなに気を張らなくていいと思うぜ」
クロイドにそう言われ、
「かえって怪しいってもんだ」と言い添えられたが、
言うのは簡単よね、これでも目立たないよう気を
使っているというのに……
と反感を覚えつつ、
「じゃ銀行に押し入るとしたらどうすれば
目立たないかしら?」と返すと、
胡乱な目を返され、
「本気か?」と訊き返されて、
「ほんき」と応え、先を促していた。
「やんないだろうけど、そうだな。
それなりの警備や監視がついてるなら、
やらない方がいいだろうな。
警備の薄い個人の金庫を狙うか、装甲車で
金を運ぶ時とかが狙い目かもな。
なんにせよ、情報を集めて、慎重にやる
こった。
そしてうまくいっても、全部はもっていかない
ようにした方がいいかもな。
それからある程度狙いは絞った方がいいな。
例えば、盗品とか裏金だといいし、
すぐに手放した方がいいだろうな。
まぁそういう類にしたところで、
手口が読まれると面倒なことになる」
なるほどね、と思い、頷いて返すと、
「次はとんでもないエースに待ち受けられる
という落ちがつく」
そう言って片目をつぶってみせたクロイドは、
「怪力だったり、壁を通り抜けたりするわけね」
そういった他愛のない会話を交わして、狭い
路地を抜けていた時だった。
叫びが響いて、立ち止まってしまっていた。
怒りの籠った声で、近づいてきているようだった。
ギャングに見つかったということだろうか?
このまま走って振り切れるものだろうか?
そんなことを考えていると、クロイドに腕を
掴まれて、壁に押し付けられ、キスを
されていた。
情熱的にいちゃつき始め、手で抱きしめられ
までされていた。
そこでギャングと思われたティーンエイジャーが
互いに罵り合いながら、そのまま通り過ぎていった。
どうやらただの子供のようだった。


クロイドはまだキスを続けていて、さすがに煩わしく、
突き放していて、
「なんのつもり?」と投げかけると、
「これが一番目を引かない方法だと思ったもんでね」
と返された。
しかも妙に気取った笑みまで浮かべているではないか。

呆れてため息を漏らし、再び突き放していた。
叩くくらいした方がよかったのじゃなかろうか?
そう思いながら、先に進むことにした。
クロイドは妙におかしいといった顔のままであったが……


あと数ブロックというところまで近付いたところで、
郵便局とわかる建物が見えてきた。
煉瓦造りの建物に挟まれた近代的なコンクリート
作りの建物で、どうやらチャイナタウンの端に
あるようだった。


私書箱のあると思しきロビーに面した扉は開けられて
いて、壁面には弱い黄色っぽい灯りが灯されている。
ギャング達が襲うことを考えるとしたら、ここがうって
つけに違いない。


中でタグにつけられていた番号の私書箱を見つけたが、
クロイドは私書箱の傍に佇んでいて、
「それじゃどうぞ」などと言っている。
ジェニファーは真鍮色をした扉を見つめ、
しばらくの間考えていた。
別に中に何が入っているか知りたいとか、
中に手を入れて試したいというわけでも
ないのだ。
中が見えない以上、どんな毒蛇が潜んでいない
とも限らない。
罠もないとはいえまい。
もちろん罪のない手紙しかないのが当たり前と

えばそうなのだが。


ともあれ意を決し、中に幽体化した手を
差し入れると、何か四角い紙が手に触れた。


それなりの厚みがあることに気を強くし、
それを掴み、手と一緒に幽体化して、
引き抜いていた。


A4サイズの封筒で、中には夥しい数の100ドル
紙幣でパンパンになっていた。
「Christ(うふぇ)、こりゃ30000ドルはあるぜ」
クロイドがそう呟いていて、
ジェニファーにしたところで、これだけの現金は
映画でしか見たことはない。


クロイドは封筒を見つめていて、何か算段して
いるのが見て取れた。


これは一体何のお金だろうか?
鍵を渡した女は一体何者だったのだろうか?
麻薬、密輸に関わるもの、それとも身代金だろうか?
何にせよ、ジェニファーの手に余るお金と言えた。
表情を険しくして封筒を閉じ、抱きしめるように
して、郵便局を出た。



クロイドはついてきていて、
「犯罪者になって初めての夜にしては悪くない」
などと言い出したものだから
「犯罪者じゃないわ、警察に持っていくもの」
と言い返したが、

「どうだろ?持って行かないさ」
「行くわよ」
ジョーカータウン分署ならこの近くに違いない。
もし途中で襲われたとしても、幽体化して、近くの
建物に飛び込めばいいではないか。
そう思い定めていると、
「あんたの友達のことを親身に聞いてくれたのは
あそこの奴じゃなかったか?」と言い聞かされ、
「正しいことをするまでよ」
「正しいことたって幅があるというもんさ。
警察になんか持ち込んだら、それをどこから
手に入れたか、訊かれるにきまってる。
そしてどういう言い訳しようが聞く耳持たず、
あんたは独房入りとなる。
それだけじゃない。
あんたの記録をほじくって、コロンビアまで
出向く、それで今後の輝かしい経歴にも
おさらばとなる。
それにもしかしたら、ミスター・ブリックウォール
とかなんとかいう悪人達からこいつを守り抜いたと
考えりゃ、多少持ち帰って、乾杯してもいいと
いうものさ」
勢いにつられて承知しそうになりはした。
実際トリシアだったら諸手を挙げて賛成したに
違いない。
そう思いながらも、自分の一部は、これまでの
冒険に想いを馳せていて、もはやクロイドと
顔を合わせることもなければ、知るつもりも
ないと思いながら、結局ロングアイランド
由来の正義感が勝つことになった。
顔を背け、勢いに任せて
「お断りよ」と言葉を放ちはしたが、
「ジェニファー、君は感じのいい人だし、
本当はこんなこと、したくないんだけどね」と言われ、
「こんなことってどんなこと?」と訊き返すと、
Freezeフリーズ(固まれ)」
クロイドはそう声を発していたのだ。