ワイルドカード7巻その2

          ジョン・J・ミラー

1988年7月18日

午前7時

ブレナンは窓から差し込む朝の光で目を
覚ました。
夢もない深い眠りだった。
何かをつぶやきながら寝返りをうっている
ジェニファー・マロイの横から互いを覆って
いるFuton布団をおしのけ、音も立てず
滑り出し、
椅子にかかったままの半ズボンにTシャッツを身に
つけスニーカーを履き、開いた後ろのドアから静かに
外に出た。
日はすでに上っていて、
大地は湿り気を帯びきらきらと輝いている。
気持ちのよい朝だ。
深く呼吸をして、新鮮な大気で肺を満たしてから
日課となったストレッチに柔軟をしてから走りだす・・・
A型枠の家の前を過ぎてから、まばらに砂利の敷かれた
私有道で早歩きに歩を緩め、
過ぎて左に曲がると兎の遊ぶ芝生と<アーチャー園芸&
造園>の看板が目に入って頬が緩む。
また平和で美しい一日が始まるに違いない。
そう変わらない穏やかな日々が。



           G・R・R・マーティン
 

三回目のノックも返事がなく、ジェイは中に入ることにした。
驚いたことにクリスタル・パレスのドアに鍵はかけられていない、
招き入れられているということだろうか、やっかいなことになって
いないとも限らないわけだが、
なにしろボディガードが必要な事態に至っているのだから。
ならば鍵をかけるのではあるまいか?
まずは暗闇に包まれた酒場に入ってみることにして
「誰かいないのか?」そっと声をかけてみたが
「クリサリス?エルモ?」答えはない。
「まぁいいさ」呼吸を整えつつそう己にいい聞かせる。
たしかにボディガードの必要な状況とみえる。
明かりをつけながら状況をつかもうとしながらも、
目が光になれるのを待ちながら悪い方を考えないようにしていると、
なじみの部屋の輪郭が暗闇の中からぼうっと浮かび上がって
きた。
小さな丸テーブルにひっくり返した椅子がのせられたままで、
バーの壁面には、わずかながら何段にもボトルが積み重ねられて
いて、反対にある長い銀色のミラーに映し出されている。
そこにはいくつものブースがあって、
他はそこそこにして見渡すと、
クリサリスがいつもいて、アマレットをたしなんでいたプライベート
アルコーブがようやく視界に入った。
朝の薄明かりが差し込む中、ジェイは、闇にまぎれて
その透明な指をアイボリー色のシガレットホルダーに
添え、喉からけだるげに紫煙を吐き出しながら振り返って
微笑むことを願って、
「クリサリス?」そう呼びかけてみた。
酒場をゆっくりと横切って、アルコーブについたが、椅子には
誰も座っていない。
不思議と背筋が寒くなるのを感じる。
それはジェイ・アクロイドにとってなじみの感覚ながら、
テーブルの脇でクリスタルパレスの知識を反芻し始めた。
クリサリスが高価なビクトリア調の家具に囲まれ寝起き
しているのは三階で、
侏儒の用心棒、エルモが住んでいるのは二階で、
目のないテレパスのサーシャもそこに同居していて、
クリサリスのオフィスを含む稼ぎどころはすべて一階に
あるわけで・・まずはそこを調べることにした。
オフィスは階段下の奥まったところにあり、
カーブを描く細かい彫刻とクリスタルのノブのついた扉で
閉ざされている。
くしゃくしゃのハンカチをポケットから取り出して、
それを手にあてがって注意深く指二本を添えノブを回すと、
ゆれながら扉は開いた。
窓もなく真っ暗でありながら、部屋の中に何があるかジェイには
わかった。
死の匂い。
強い銅のような匂い。
血の匂いで充ちている。
恐怖が汗のように滲み出すのを感じながら、
匂いに神経を集中すると、
嗅ぎなれた瘴気の他に、
紛れもないあの人の香水の匂いがするではないか。
「なんてこった」誰に聞かせるでもなく悪態をつきながら、
ハンカチをもったまま明かりをつける。

そこにはかつて魅惑的な世界が広がっていた。
よく磨かれたハードウッドの床に、ゴージャスな東洋の
毛織物がかけられていて、
床から続いている高い本棚には、びっしりと革表紙の
初版本で閉められていた。
ジェイよりも年を経たと思しい硬いオーク材のテーブル、
最古の社交場から取り寄せたような、革張りの肘掛け椅子が、
だがそれは損なわれていた。
椅子の木製の脚は砕け、破片が飛び散っていて、
革張りは裂かれ破れていて、
三つある高い書棚は崩れていて、
ひとつが真ん中から断ちわられているのだ。
裂け目は鋭利なナイフを使ったようなすっぱりとした
切り口で・・・あたりには雪崩おちた本が散らばっている。

そのひじかけいすの残骸を背にしてクリサリスが倒れている。
乱雑に散らばった壊れた脚とクッションの間に、
そしてオーク材のデスクは倒れその身体の上に覆いかぶさっているでは
ないか・・・
デスクに隠れて顔が見えなくなっている・・・
青いジーンズに飾り気のない白いブラウスを着ているが・・・
ブラウスの前は飛び散った血にまみれ、左足はありえない方向に曲がっていて、
デニムの膝から赤い頚骨が飛び出している。
かがんでみてみると、透明な皮膚を通して左手の腱の下の骨がすけてみえるが、
指は5本とも砕けていて、
その指を手にとってみると、
かすかな温かさを感じたように思われたが、すぐにそれは冷たいものに変わっていった。
一瞬の逡巡の後、手を離して、デスクを上からのけることにした。
重さに顔をしかめながら、
強引に押しのけて、
ぶつくさいいながら、壁を背にしたところにデスクをたてかけたところで
クリサリスを見下ろすと、
そこには顔がなかった。
頭蓋が陥没して完全にそぎ落とされたかたちになっている。
椅子の背もたれのところは乾いた血とつぶした脳漿と頭蓋のものと思しき骨の破片に
まみれている。
すべてが赤く濡れている、いすの脇には小さな血溜まりが、東洋の毛織物にまで滴って、
たまらず上を見上げると、
飛び散ったと思しき血がデスクの前面と壁の低いところのみならず、
電球のソケットまで彩っているではないか。
古式ゆかしい模様のついた壁紙は紫色でかわらずビクトリア調ではあるものの、
きっと目を凝らしたら血にまみれているに違いあるまい。
ジェイは立ち尽くし、何も感じないよう努めた。
もっとひどい死体もみてきたではないか。
クリサリスは随分長い間危険なゲームに手を染めて、
多くの秘密を知りすぎた。
いつこうなっていてもおかしくはない。
遅かれ早かれこれは起こったんだ、と己に言い聞かせながら。
再び死体に目を向けて、その状態を脳裏に刻み込んだ。
これはもはやクリサリスではない、ただの死肉だ、ものいわぬ証人
なのだ、と言い聞かせながら。
あらかた記憶に叩き込んだところで、今度は室内の様子に意識を移した。
はじめに気づいたのは小さな長方形のカードで、死体の左太もも近くに
それはあった。
さらに周りを改め、かがんで近くを確認してみたが触れはしなかった。
そうする必要もない
血にまみれておらず
表が上になっていたのだから
トランプのカード、
……スペードのエースか……
「Son of a bitch(縁起でもない)」とひとりごち。
オフィスを出て、後ろ手でドアを閉めたところで、階段のところから足音が
聞こえてきて、
壁にぴったりはりついて、相手を待つことにした。
鉛筆のような細い口ひげをはりつけた細身の男が姿を見せた。
スリッパを履き、シルクのドレスガウンを着た。
目があるべきところが青白い皮膚で覆われた男が、
ゆっくりと振り返りジェイが潜む暗がりに頭を向けて、
「心が読めるんだよ、ポピンジェイ」そう言い放ったではないか。
暗がりから出て「サーシャ、警察に連絡するんだ」
それからこう付け加えるのも忘れなかった。
「俺をポピンジェイ(めかし屋)とよぶんじゃねぇ」と。